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住職の想い【第1回】先代、先々代の想いと住職の幼少期

珍しいモノ好きの先々代が始めた寒牡丹、文化人達との交流からはじまり、先代の時代で寒牡丹・牡丹とも一挙に株数が増え「牡丹の寺」に。

珍しいモノ好きの先々代が始めた寒牡丹

私は先々代のことはほとんど記憶にはないのですが、わりと珍しいモノにすぐ手を出す性格だったようです。また、茶道と華道を盛んに教えており、たくさんの人が習いにきていました。それで当時、牡丹は植えていたのですが、「冬に咲く牡丹があるということを聞いて」それで寒牡丹を入手して植えてみたところ、春の牡丹とはまったくちがう咲き姿を見て、たいへん驚いたようです。「これは絶対に新年のお茶会、初釜でいけるぞ」と。

そうやって住職からそのことを聞いて、見に来た人が驚いて感動する。それを伝え聞いた人が牡丹を見にくるようになりました。とくに華道、茶道関係の人、それから歌人とか句会の人なんかが集まるようになりました。まぁ、そうやって人を集めることが大好きだったようです。そうして寒牡丹の風情を楽しむ人が仲間を増やして楽しんでいたようです。先先代住職の笑みが目に浮かぶようです。

例えば皆さんがご存知の有名な方ですと与謝野晶子ご夫婦。お花のシーズンになると先々代が便りを出していたそうです。それである年のこと、ちょうどその頃はご夫婦もだいぶ年を取られておりましてね。せっかくだけども身体をこわして、そちらに行くことが叶いませんと。でも心はすでにそちらで遊んでいます、というお手紙をもらいます。その時に一句書いて、送っていただいたものがお寺に残っています。他にも歌人の釈迢空(しゃく ちょうくう)という、折口 信夫(おりぐちしのぶ)ですね。この方もお越しになって歌碑を残していますね。

寒牡丹・牡丹とも一挙に株数を増やした先代の時代

先代は先々代以上に牡丹を愛した人でしたね。先々代はちょっと身体が弱くて神経痛も持っていましたから、自分の手でというよりは人に世話を任せていました。でも先代は他人の手ではなく、自分の手で牡丹を育てるということに専念していましたね。 そうして牡丹の数がわっと増えました。もちろん寒牡丹も増やしました。すると今までは茶人や歌人、俳人といった人だったのが、一般のお花の好きな人がたくさん集まるようになったんですね。その時に「牡丹の寺」ということで、世間に言われるようになりました。最終的には牡丹の株数が2,000くらいになって、先代はすべて自分で世話をしていました。

私は当時、小学校2、3年生の頃だったと思いますけど、先代が牡丹をいじくったり接ぎ木しているのを、座ってじーっと見ていましたね。牡丹の根に別の牡丹の穂木をくっつける。するとそれがくっついてその牡丹になってしまう、というのが非常に不思議でね。「学校帰って宿題もせんと!」と、しまいに怒られるくらい飽きずに見ていました。

まあそんな調子で、自分もやってみたいと思って手を出して、怒られたりもしました。先代が接ぎ木した苗をこそっと抜き取って、自分のもらった場所に植えたこともあります。当時の子どもっていうのは、お家の畑の一部を自分用としてもらっていましたから。「これがオレの陣地や」って訳です(笑)。私も畳一枚ぶんほどの陣地に鳳仙花や金盞花、それにスイートピーを植えたりしていました。そこに植えたんです。それで、いつの間にかそれが大きくなって、花が咲いて。それを見た先代が「こんな所に植えた覚えないぞ。さてはお前、取ったな?」って言って、でもその時は怒られなかったんでびっくりしたんです。私は先代が牡丹をものすごく大事にしていたのを分かっていましたから。これは頭一発叩かれるんじゃないかと。それが、一応怒るんだけども、片っぽ頬をゆるめてニヤっとしましてね。あれが印象に残っていますね。嬉しかったんだろうなと。結局、今の自分というものも、そのへんから始まっていたんだろうなと思います。