仏の教えが広まる世においては、天下和順、日月清明、風雨以時、災厲不起。つまり「天下が和らぎ乱れず、日月は清く明らかに輝き、風雨は必要な時に起こり、天災病疫は起こらない。」という浄土三部経の一節です。こういう世でありたいものですね。
大津皇子は天武天皇の第三皇子です。幼くして母親である太田皇女をなくし、同母姉である大来皇女とは強い絆で結ばれていました。学問を好み武勇に優れ、天武帝はその才能と人望を高く評価していました。しかし異母の、う野讃良皇女(のちの持統天皇)の子である草壁皇子との間に皇位継承をめぐる不穏な動きがあったようです。朱鳥元年9月天武帝が薨去し、後ろ盾をなくした大津皇子が同年10月、謀反の罪を着せられ誅殺されました。
大津皇子のなきがらを二上山に移し葬られるとき、姉の大来皇女が哀しみ悼んで読んだ歌が「うつそみの 人にあるわれや明日よりは 二上山(ふたがみやま)を弟(いろせ)とわが見む」(万葉集2-165)です。そして古代石光寺においてその菩提を弔ったようです。
中将姫様が仏の示現により、石光寺の霊水涌き出でる井戸で、蓮の茎から取り出した糸を洗い清めたところ、乾くに従い五色に染まった。というわけでその井戸を「染乃井」言い、この寺を「染寺」ともいいます。そしてその糸を當麻寺に持ち帰り、一夜のうちにあの大きな極楽浄土図の曼荼羅を織り上げたということです。(當麻曼荼羅縁起絵巻[国宝]による)
當麻曼荼羅縁起絵巻によるところの石光寺縁起の朱印です。この内容のごとく天皇から「石光寺」という名を賜り、勅願で堂宇を建立され弥勒石仏をご本尊とされた。時代背景は584年百済の鹿深が弥勒信仰を日本に伝え天智天皇は弥勒信仰者であったと記されている文献もあります。石光寺創建は白村江の戦いと壬申の乱の間の出来事と思われます。