「住職に訪れた不思議な体験」でも触れましたが、
1991年5月23日(木)大手新聞各紙3面記事トップ、カラー刷りで掲載。
しかも全国テレビニュースで報道されたのです。
掲載紙:産経新聞、朝日新聞、読売新聞、奈良新聞、日本経済新聞、浄土宗新聞、毎日新聞
※テレビニュースにもなりましたが、残念ながら映像は残っていません。
石仏の出土に、興味を持っていただきありがとうございます。
以降、石光寺弥勒堂立替に伴う発掘調査の内容を記した資料から抜粋し、紹介します。
当麻寺石光寺と弥勒仏 概報
奈良県立柏原考古学研究所編。吉川弘文館
<概 要>
調査費用は、国、県費、石光寺が出費。調査は奈良県文化財保存課の行政指導のもとに、
奈良県立柏原考古学研究所と、当麻町教育委員会の共同で行った。
平成3年4月24日から5月30日までの通算30日間実施した。
石仏については平成4年3月6日付けで奈良県指定美術工芸品として指定された。
ここの風景は、大和な原風景の一つで今なお昔ながらの姿を見せている。
二上山の北側には、大阪越えの道と、南には、大和と河内、和泉を結ぶ交通の要所となっている。
頭部は側面からみるとかなり扁平であることがわかる。
体部は、当初の形態をよく残している。
胸を張って胴部を引き締める。中国初唐の様式の影響を思わせる。
頭部と体部を合成したものは、胴体に対して頭部がかなり大きいことがわかる。
現在の石光寺は、浄土宗知恩院の末寺である。現状では、本堂と呼ぶべき堂が2つある。
一つは弥勒堂で、一つは阿弥陀堂(常行堂)である。
出土状況は、後頭部を上にして出土した。側面に板状の耳が見えていた状態。
見つかったのは、瓦に土器、天蓋(てんがい)に使われたと考えられるヨウラクとガラス玉。
元亨2年1322年の元亨釈書には、一つの説話が記されていて、縁起説話になっている。
染井の近くにあった染寺は、天智天皇の勅願により、
光る石を彫り込んで作った弥勒三尊像を本尊として創建されたとしられる。
中世の元亨釈書に、天智天皇の勅願により石仏及び堂塔を建てたとされていることは、
皇室と関わりある寺として建立されたことを物語っている。
今回発掘された堂は明らかに7世紀末から8 世紀初頭の建立であり
弥勒仏を本尊とした弥勒堂として建てられている。
弥勒仏は、56 億7000 万年後の世に現れる未来仏である。
石仏は白鳳期にこのお堂の本尊として作られ、平安に修理が加えられ、
鎌倉には埋められたということになる。
弥勒仏は、信仰する弥勒信仰によったものと思われる。
「こうして調査に係わった人々に多くの心のドラマを作って一応の調査は終わった。
もしあの時、掘る場所が1m もすれていたら、もし、予定からなんとなく2m西側を掘って
なかったら石仏の発見は未来に委ねることになったはずである。
ここを掘ったのは必然であるというよりも、亡くなった研究所初代の所長の意志が
私に石仏を発見させた、と思いたがっている。とある。」
また、石光寺の先代住職も、境内の何処かに「光る石で彫刻された石仏が埋まっているはず」と
信じて疑わなかったという。
当麻曼荼羅 縁起絵巻に書かれている通り、天智朝に作られたと石仏なら驚き。
鎌倉の光明寺所蔵。右には光る石、左は加工して弥勒仏を彫刻している図が描かれている。
二上山山麓の緩やかな台地に建てられた。この地域は古代の標野(しめの)だった。
石光寺の石仏についての詳報は、
仏教芸術203号、石光寺の発掘と出土遺物(河上邦彦、鈴木喜博)に、記している。
二上山には、かなりの数の石切場があったと考えられている。
この石材は、古墳時代後期から奈良時代にかけて
石棺材、寺院や宮殿の建築用石として盛んに使用された。
<一部紹介>
天地天皇の時代、二上山のふもとの井戸のほとりに毎夜光を放つ石があり、
その石が仏像の形をしているので、天皇がこれに弥勒像を彫らせ、堂宇を建立して染寺と名付けた。
この石仏が出土したのは染めの井のすぐわきで、まさに伝説を証明するようであり、多くの人を驚かせている。
<一部紹介>
前住職の妻は「長い間探し求めていたものがやっと出てきました。」とコメント。
仏像が当時主流だった木や金属ではなく、凝灰岩でできていた事は知られている。
当時、大和では“行革”が始まり、天皇や皇室の人物を葬る石室材料を二上山の凝灰岩に統一したから。(柔らかく加工しやすい)
<一部紹介>
特有の朝鮮半島の影響を受けたもの。
これまで白鳳期の作品はほとんど見つかっておらず、技法も当時としては例を見ない
「寄せ石造り」。仏教美術史上、画期的な発見として注目されている。
<一部紹介>
茜色の染まる二上山。万葉の人々はここをあの世への通い道、他界との接点と考えていた。
中将姫が井戸でハス糸を五色に染めたという石光寺からは今年5月、日本で最古という石仏が見つかった。
天武天皇の子、大津王子は二上山に葬られた。(万葉集) 寺の一帯は染野と書いてシメと呼んでいる。 染野は後世の当て字で、標野(しめの)だったのではないでしょうか? 標野は「占め野」であり、人を寄せ付けぬ皇室の聖域。当麻が河内の異族との境であり、 他界への通い道であったことを抜きには考えられない。だから大津王子の怨霊もここに鎮められたのだろう。
<一部紹介>
朝鮮三国時代末や統一初期の新羅の石仏や金銅仏を連想させるものがあった。
頭部がはめ込み式であり、両腕も別造りなのは、我が国の伝統的な木彫法にならってのことともいえようか。
平頭で低いのは、当麻寺金堂の本尊とは相違している。
<一部紹介>
石光寺から、白鳳時代(七世紀末)の最古の石仏とともに見つかった金堂とみられる建物跡をめぐって難問が生まれている。
発掘の最終段階で、予想しなかった場所から、柱を立てる礎石が出土したためだ。
同寺の創建時期や建物の規模にかかわる重要な問題を秘めており、県立橿原考古学研究所は解釈に頭を悩ませている。
<一部紹介>
最古の石仏は口とあごが欠け、表面はボロボロ。が、その細い目の丸いお顔は、いかにもおおらかだった。
「光を放つ石に弥勒(みろく)の三尊を彫刻して精舎一同を建立」と中将姫ゆかりの石光寺の由来を証言するかのように約千三百年後に姿を現した。「最初はコンクリート片かと思った。耳が見えて、大変なものが出たと興奮しました。」
<一部紹介>
石光寺の中村忠興住職は「必ず発掘して欲しい」と前住職だった弟が、言い残し亡くなって間もなく一周忌。檀家の人達と前住職が石仏になって帰ってきた。石仏が見つかったのは、今月七日に亡くなった県立橿原考古学研究所の創設者で考古学会の最長老、松永さんの告別式の翌日だった。「なにかの縁を感じざるを得ません」さらに調査すれば脇侍(きょうじ)の石仏が見つかるかもしれない。と想像をかきたてられます。
<一部紹介>
顔の表情や胸の隆起が当麻寺の塑造弥勒仏坐像に似ていた。肉髻(にっけい)があったことから如来像で、弥勒仏とみられる。鎌倉時代始めに倒壊して捨てられたと考えられ、ひざや首など足らない部分は近くに埋まっているらしい。石は石光寺の背後にそびえる二上山産の凝灰岩。
<一部紹介>
唐草文や想像上の花の文様の宝相華文(ほうそうげもん)を浮き彫りにし、金箔(きんぱく)を張った文様壁が、塼仏(せんぶつ)と一緒に出土したと発表した。これまでに類例のない堂内装飾で、金色堂のように金色に輝いていたと考えられている。塼仏(せんぶつ) 仏像を型押ししたタイルのこと。
<一部紹介>
仏像内には過去、現在、未来を象徴してそれぞれ千尊の計三千尊分の塼仏(せんぶつ)が張り巡らされていたと推測している。
<一部紹介>
石光寺の前住職・孝煕(たかひろ)さんは昨年六月、脳梗塞で亡くなった。生前はよく「石光寺の歴史をはっきりと確かめたいなぁ」と話し、ルーツが謎に包まれているのを残念がっていた。その夢が現実になったのは調査も終わり近づいた十七日午後。”証人”の石仏は本堂と孝煕さんが生前に作ったボタンの植え込みとわずか1m の隙間にすっぽりと横たわっていた。今秋には長男の義孝さんが帰ってきてお寺を継ぐことも決まった。二つのうれしいニュースが仏前に報告される。
<一部紹介>
神山館長は、出土した塼仏(せんぶつ)や壁に金箔が張ってあり、須弥壇(しゅみだん)の遺構が広いことから「脇侍を固める弥勒三尊があった可能性も高い」との見解を示した。日本で石仏が少ないことについて、「岩や石が多い中国・朝鮮に比べて、日本に良い石が少なく、また木という仏像を掘るのに適した素材があったから」と説明する。
<一部紹介>
奈良時代以前の丸彫りの石仏はこれまで知られておらず、また、首、胴など六個の部分を組み合わせた「寄せ石造り」ともいうべき例のない構造で、仏教美術史の超一級の発見。
ボタンの寺で知られる石光寺は、古代から神聖視されていた二上山の東麓にあり、寺伝やこれまで出土した塼仏(せんぶつ)、瓦(かわら)などから白鳳期の創建と言われていたが、確証がなかった。
<一部紹介>
大阪私立美術館長の神山館長は、新羅、百済の渡来人の工人集団が製作した可能性は高いと思う。石仏には、金箔が張られ伝説のように堂内にどっしりと鎮座し光り輝いていたかもしれない」と思いをはせる。
<一部紹介>
組み立てると像高は約1.5メートル、彩色はされていなかった。西川東京国立文化財研究所長の話。
日本では石仏が発達せず、この時代に丸彫り石仏が出土したのは信じられない。おそらく渡来人が指導者になって掘り上げたもので、重い石材を堂内に運ぶために分けることを考えたのだろう。